貧乏ゆえの教養について。 ⽂/くらげさん
私は⽚⽥舎の貧乏な家に⽣まれた。⽗親は私が⽣まれるちょっと前に起業したが失敗して多額の借⾦を負ったためだ。しかし、⽥舎というのは元々⼤して⾦を持っている⼈がいないところだし、まだスマートフォンはおろか携帯もない。⽤⽔路にジャブジャブ⼊ってザリガニやドジョウ、タナゴを網ですくったり、原っぱでバッタを追いかけたり、雪が降ればかまくらを作って雪合戦をする。それが⼩学⽣の頃の私の「遊び」だったのだ。だから、貧乏でいやな思いをしたことはあまりなかった。
だが、テレビで流される「東京」は違った。芸能⼈がいて、おいしいものがいっぱいあって、綺麗な服を着たスマートな⼈たちが歩いている。それは私にとっての「理想」の世界だった。
そして、私は16歳のとき、⾼校進学をきっかけに上京した。そこで⾒た東京は「お⾦」がないと何もできない⼟地だった。貧乏な家庭にとっては⼦供を東京に出す、ということだけで負担だったから、東京にいながら東京を観光したり楽しむということは難しかったのだ。
だが、東京には⼀つ⽥舎にない利点があった。⽴派な図書館だ。もちろん⽥舎にも図書館はあるが、東京の図書館に⽐べれば「図書室」と⾏っていいほどのものだった。本は幼少の頃から⼤好きだったので「こんな量の本を無料で読めるのか!」と感動したものだ。⾼校時代は休みの度に図書館に⾏き、平⽇は借りてきた本に没頭する、そういう⽣活を送っていた。
それが私の「教養」を育む場となった。その教養が今では作家をする上でのかけがえのない資産となっている。教養とはお⾦持ちが⾝につける特殊なものと思われているフシがある。だが、けっしてそうでない。貧乏だからこそ⾝につける「教養」もまたある。私にとっての図書館がそうであったように。
そういう意味では「教養」を持たない⼈はいない。だが、それをどう活かすかが⼈によって⼤きく変わってしまう。それ故教養がある⼈とない⼈が分かれるように⾒えるのだ。
では、教養を発揮するにはどうしたらいいのだろうか。もちろん、実際にいろいろ書いたり作ったりすることが⼀番だが、⼀度森に⼊ってはいかがだろうか。できれば⼀⼈でゆっくりしながらだ。森はぱっと⾒たところ「何もないところ」だ。少なくとも「都会」的な価値観では何もない。だが、森とは命を育む根本的な場であり森の中にある「可能性」は無限だ。その森に⼊り、あなたは何をするだろう?
樹を眺めてその歴史を想うかも知れない。川のせせらぎに歌を聞くかも知れない。通りすがった⽣き物にドキドキするかもしれない。そして、その感情の動きはあなたの「教養」から来ているのだ。無知では森を「理解する」ことはできない。森を全⼒で「楽しむ」ことは五感を使った教養の発露なのである。そして教養とはそこにある「命」を感じるということなのだ。
⼦供の頃の私は「東京」にあるものが教養だと思っていた。しかし、今の私はそれは⼀つの側⾯でしか無いことを知っている。⾃然の中で遊んだこともまた「命」を理解するための教養だったのだ。
今、⽥舎は野原や⽤⽔路が整備され、安全でキレイな住宅街になっている。ある意味、東京になってきた。しかし、その町には網を持って⾛り回る⼦供はもはやいない。それは時代の流れであり、間違いなくいいことだ。だが、⼈⼯物で安全になった⽥舎は胸にチクチクした何かを訴える。そのチクチクは「なにか」が失われた悲しみだ。だが、もうこの⼟地に住んでいない私が⼝を出せることでもない。ただ、この⼦たちが「教養」を⾝につける場所がまだ残っていられるよう、私は祈るだけなのだ。
くらげさんプロフィール
⽿の悪いADHDのうざいオッサン。普段はただのリーマン。時々作家・ライター。
著書:ボクの彼⼥は発達障害 (ヒューマンケアブックス)